砺波詰所

砺波詰所存続と強度の土徳

長文になりますが、読んでいただければ幸いです。


 それは一人の嫗の泪からはじまった。私と京都に旅行した加藤平次郎さん(現・砺波詰所維持委員長)が詰所に泊ると言い出した。「詰所って、あんなものまだあるの?」私はとなみ詰所が閉鎖されたらしいという風聞を耳にしていた。大学入試の時に泊ったがよく覚えていなかった。何十軒もあった詰所も数軒に減ったと聞くが、詰所を粗末な木賃宿の一種と考えていた私には、それも時代の趨勢だという感慨しかなかった。行ってみると詰所はまだあった。しかし間もなく売り払われようとしていた。「赤字でもないがに、こんな尊いもんを疲れたから潰すいうがは、おかしないけ……」食堂では「詰所のおばちゃん」として長年現場を切り盛りしてきた城宝和子さんが泣いておられた。

それが詰所存続運動のと私の出逢いだった。私は詰所に残っていた記録を見せてもらった。そして関係図書を漁って江戸・明治・大正・昭和の詰所の変遷を調べてみた。おどろくべき雄大な歴史だった。世界一といってよい東本願寺の巨大な木造建築群が、江戸後期いらい四度にわたって焼失と再建が繰り返されたことは知られている。それは一貫して門徒大衆の手によってなされた。門徒が資金を募るだけでなく、厖大な勤労奉仕を行って建てた。勤労奉仕といってもおざなりのものでなく、大工から技術を学んで作業の中枢を担った。詰所はそのような無数の門徒の寄進によって開かれた。私と詰所の出逢いは、郷土の精神風土、土徳を支えた、偉大な地域共同体システムとの出会いだったのである。

明治の再建では門徒の人足奉仕はのべ70万人だったが、江戸時代はもっと多い。諸国詰所はこうして汗を流す門徒の寄宿舎として最盛期には70近くにものぼった。それはたんなる寄宿舎ではない。毎日勤行とご示談の共同生活が行われ、信心を涵養する研修道場であった。また上洛した郷土人士が砺波弁丸出しで付き合える憩いの場所であり、京都と砺波を結ぶ信仰と文化の結節点でもあった。さらに本尊や肩衣の申請など本山との手続きを代行してくれるサービス機関でもあった。

南砺市大西の谷村家に興味深い文書が残っている。明治21年、彦左衛門(谷村家)が草鞋二十束を本山工事現場に送った時の礼状で、慇懃な謝辞を記したあと、「京都詰所 同行総代、法中総代、二等総代」がそれぞれ認印を捺している。こうしたきめ細かい配慮が両堂再建を支えていたのである。当時の砺波詰所主人(主任)が明治の妙好人として全国門徒から慕われた砺波庄太郎で、彼は抜群の指導力を買われ、諸国詰所触頭の重職にあった。実質上の現場監督といえる。

庄太郎亡き後、となみ詰所は研修の宿として、砺波群の五つの組から選れた十五人の維持委員によって運営された。委員はそれぞれの地方の講世話方数十名の推薦によって選ばれ、委員として詰所に奉仕することは地域の信心を代表する人物として尊敬された。こうした講のシステムが詰所を維持するだけでなく、土徳あふれる郷土の精神文化、地域共同体を育てていたのだ。しかし、今や砺波詰所の歴史的意義は砺波庄太郎の記憶とともに風化し、関係者の高齢化と疲労によって維持困難な状況に立ち至っているのである。

詰所を失うという問題は、一万戸の寄進によって成り立った東西砺波郡共同の資産がうやむやにされて無くなるといった物が衰退し、地域共同体が崩壊に瀕していることを意味しているのである。今日一極集中と過疎の問題が深刻となり、地方の経済的な地盤沈下が嘆かれているが、これは経済のみの問題ではない。人間の心は風土によって培われる。子孫のために豊かな精神風土を社会環境として引き継ぐことが私たちの歴史的責任ではないだろうか。明治の両堂再建時には五十余りあって、戦後も二十余りが健在だった諸国詰所が今や五軒に減ってしまった事実は、この二、三十年で日本が失ったものの大きさを反映していると思う。

私は「詰所のおばちゃん」の泪に突き動かされて多くの人々に存続を訴え、三年の歳月を閲して維持委員会は形の上では蘇った。しかし現時点では建物の維持が確保されたにすぎない。これまでのように大谷派という教団の内部倫理だけでは、詰所が本当に郷土の未来へ向けて活性化することはないだろう。詰所の真の存続運動とは、郷土の歴史と土徳、そして先人が数百年の苦労と試行を繰り返して磨き上げてきた地域共同体の未来へむけての再生を志すものでなければならないと信ずる。郷土を愛し、先祖に感謝を捧げる人々は、一人でも多く詰所の歴史を再確認していただき、有形無形にみんなの詰所を譲り通し、後世に伝えていただきたいと祈念する次第である。
(おおた ひろし・株式会社砺波詰所代表/大福寺住職)

写真イメージ
仏壇の写真

1階にある仏間

都会ではあまり見られない仏間ですが、地方の旧家などでは仏間に立派な仏壇があるのをみかけます。


東本願寺の門前町に小さな旅館がある…

 この「砺波詰所」は、砺波一円の門徒宗にとってかけがえのない、心の拠点であり、日本の宗教史にとっても貴重な生きた歴史遺産といえる。
東本願寺は、過去4回にわたって消失した。その都度全国の門徒宗が資料の調達、再建費用を募り、京都へ集まって、労力奉仕を続け、熱い思いで再建がなされてきた。
元治元年(1864)の蛤御門の変で、阿弥陀堂と御影堂が焼け落ち、明治13年から再建が始まる。明治28年に竣工するまでの間、多くの労力奉仕者のために、宿泊所が設けられ、夜はここで説教を聞き法悦に浸った。
46軒もあった諸国の詰所は、その後も本山への参拝おりに講を開くなどして、活用されてきたが、次第に数が減り、現在では5軒のみになった。
運営者の高齢化や環境の変化から、平成15年には閉鎖の危機に直面したが、この灯を消してはならないという心ある有志の呼びかけと奔走で、復活することができた。ここに本来へ引き継ぐべき歴史がこめられている。
(富山写真語「万華鏡」第191号より)

砺波詰所維持委員会

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